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年表

紀元前  【古代部族聯合時代】レミニア族が大陸西部草原地帯で繁榮。
紀元後
100年  東方に版圖が膨張。
166年  東方邊境トメニア平野にて先住民と衝突。(トメニア戰争)
224年  パペルニア丘陵に進出。先住民を征服。(パペルニア戰争)
253年  ロンダタブロ平野に進出。先住民を征服。(ロンダ戰争)
302年  オルニア盆地に進出。先住民を征服。(オルニア戰争)
368年  カイェロ平野に進出。先住民を征服。(カイェロ戰争)
412年  セン平野に進出。先住民を征服。(セン戰争)
473年  東方砂漠荒野地帯に進出するも獰猛な先住民に阻止される。(砂漠戰争)
504年  メダルスカルト部族がソバジ・ランド荒野及グランポンド湖周邊に進出。
571年  メダルスカルト族がオムプ王國を征服。(オムプ戰争)
623年  【メダルスカルト王國時代】メダルスカルト族がアルジェントリア盆地を占拠。(アルジェントリア戰争) メダルスカルト王國を建てる。
652年  カーキ族、マウマウ族を服属せしむ。(カーキ戰争、マウマウ戰争)
780年  蝗族襲来す。メダルスカルト王國滅亡。(蝗戰争)
787年  【ノルダ共和國及獅子王國時代】大内海沿岸に難民が都市國家ノルダを建設。西方レーベ平原に逃れた難民と王族が獅子王國を建設。ノルダ軍は度々遠征を行い版圖を擴大す。(ピナ遠征、ホーク遠征、キング遠征、ベルダランド遠征、大内海沿岸遠征、リイ平原遠征、ドルナベート遠征、マンダリン遠征、サラマンダー遠征、ラトラント遠征)
797年  ノルダ本國共和制崩れ寡頭制に移行。
851年  【属州時代】ノルダ遠征軍が大陸南部に達しオスタリーチ及ガイツを無血占領。總督府を開設。
915年  オスタリーチ軍團のレミニア丘陵遠征。レミニアに軍團支隊が駐屯。次第に平野地帯の先住民を驅逐。(レミニア戰争)
960年  【ラトニア王國時代】ラート将軍の叛亂。ラート王國成立。
964年  ノルダ本國帝政に移行し北帝國成立。ラート王が北帝國に貢納し其の保護下に入る。
1003年 ラート二世王がハナフウーダン盆地に進出。(ハナフウーダン遠征)
1090年 ラート三世王がトラプニア族を服属せしむ。(トラプニア遠征)
1126年 ラート四世王がカルタニア族を服属せしむ。(カルタニア遠征)
1159年 ラート五世王がワ族を服属せしむ。(ワ遠征)
1211年 ラート六世王が南海探検隊を派遣。アンドロメダ盆地に進出。(アンドロメダ遠征)
1250年 ラート七世王がガイツ獨立運動に介入しオスタリーチ總督府と對立。(梅雨戰争)
1308年 東方帝國より朝貢を勧められるがラート八世王が是を拒否し使節團を處刑。
1350年 東方帝國がチエラルカ占領。
1400年 東方帝國がしレミニア漁船の拿捕を始める。
1464年 【東方帝國属領時代】東方帝國軍がレミニア沿岸に上陸し橋頭堡を築く。東方帝國遠征軍がラート王國軍を破る。東方帝國がラート王國を保護下に置く。(ハナフウーダン戰争、ボロディノ戰争)
1500年 【レミニア公國時代】ラート王家の血統断絶しラート王國廢止。レミニア公國成立。
1558年 レミニア公國軍が叛亂勢力討伐の為にガイツ進駐。(ガイツ討伐戰争)
1560年 【ココ朝レミニア王國時代】レミニア軍のガイツ撤退及ココ将軍の叛亂。東方帝國の保護下より脱す。レミニア王國成立。(ココ獨立戰争)
1603年 ココ王軍がガイツ侵攻。 1604年 オスタリーチ併合。北帝國オスタリーチ總督府廢止。(第一次オスタリーチ戰争)
1810年 【レミニア共和國時代・第一共和制】レミニア共和國發足。
1816年 オスタリーチ叛亂鎮壓。(第二次オスタリーチ戰争)
1822年 【レミニア大公國時代】レミニア大公國成立。
1825年 東方帝國遠征軍撃退。(第一次ニルス戰役)
1826年 祖國聯合結成。
1850年 【レミニア共和國時代・第二共和制】東方帝國軍を大陸南部より驅逐しレミニア共和國成立。(第二次ニルス戰役)
1874年 第一次國境紛争事變。
1881年 第二次國境紛争事變。
1884年 第三次國境紛争事變。
1887年 ベルベル族叛亂事變。
1909年 リゾネシア王國を保護下に置く。(リゾネシア出兵)
1914年 マルノブフォント砦事件。山嶽部族移動阻止作戰。ソバジランド會戰。歐州大戰勃發に際し中立を宣言。
1915年 陸軍特別大演習。
1916年 ブラトニア峠事件。
1919年 ゴルゴニア赤色革命干渉出兵。
1929-30年 北帝國戰争。
    【レミニア聯合共和國時代・第三共和制】北帝國とレミニア共和國が合併しレミニア聯合共和國成立。

【前史】

《レミニア族の始原》

古代より大陸西部の草原地帯(現在の北部邊境チエル州)にて放牧生活を送っていたレミニア族は、エレクトラ、コスモサ、ヤッコイ、ブトン等の部族に分かれ各々繁榮を誇っていたが、二世紀頃より人口増大のため新たな牧草地を求めて徐々に東方に版圖を擴大し、三世紀から五世紀にかけて北西部盆地(現在のパペルニア、オルニア、セン諸縣)を占拠、六世紀に入ると、その分派は遙か砂漠荒野地帯(現在の東部邊境諸州)を通過、大陸東南部海岸(現在のアルジェント、ボルドリエンタ、チエラルカ諸縣)に達した。

《メダルスカルト王國》623-780

彼らは優れた武力を以てオムプ、マウマウ、カーキ族等の先住民を服属させ一帯にメダルスカルト王國を建設した。

《蝗族の襲来》780

メダルスカルト王國は交易と奴隷制農業に依り繁榮を謳歌したが、或る時、七世紀中葉に北方からやはり遊牧民「蝗族」が領内に大挙移住して来たのを撃退しようとしてこれを急襲驅逐する事を繰替えした。怒った蝗族は報復として略奪虐殺の蛮行を繰返した。百年に及ぶ平和に慣れて形骸化していたメダルスカルト軍の討伐隊は剽悍な蝗族の大軍の前に徐々に劣勢となり、これを見た先住民マウマウ族が王國から離反して獨立を宣言してしまった。マウマウ族は東部山嶽地帯に押込められていたので蝗族の侵略を免れていたのである。

《逃避行とノルダ國及獅子王國の建國》

次々とメダルスカルト軍を破った蝗族は遂に王城を包囲するに至り、都に住む商人・手工業者は西の大荒地帯を経て山嶽を越える逃避行の後、大内海近くの盆地(現在のノルダ縣)に至りノルダ國を建設し、其處に安住の地を見いだした。これが後の北帝國である。
官人・貴族は近衛軍團の護衛のもと王族を奉じ西の山嶽を越え現在のレーベ縣に至り、山裾の臺地の上に築いた粗末な城に拠って糊口をしのいだ。これが後の獅子王國である。
蝗族はメダルスカルト領を簒奪したが、内紛により政略定まらず主力は東方に向け再び侵略の征途につき、少数の部族が残留定住した。まもなく勃興した東方帝國がこの地を占領して属領となした。


《属州總督府》851-

ノルダ國は最初は都の市民による共和制をとり徴兵制による強力な軍團を編成し、周邊未開地に度々遠征を行って先住民を驅逐しつつ版圖を擴大した。九世紀中葉にその遠征軍の一部が峻險な青氷河山脈を越え南部盆地(現在のガイツ縣)に達し此處を属州となした。ナシ湖畔にガイツ總督府が開設され新たに編成された軍團が駐屯した。温暖にして風光明媚の地ゆえ有力者の別荘地及荘園が續々と開設された。ガイツとは古レミニア語で「笑う石」と云う意味である。
總督府は盆地東端のフラーヴァ川の源泉に於いて寶石が採取されたので、その沿岸オルキデオ荘園に移り、木造の城塞(現在のガイツ城)を建て防衛拠點とし、更に盆地の中を一周する街道と驛逓を建設した。巨大な車輪を持つ定期公共馬車が運轉され、荘園主が本國から招致した手工業者が増加し、また青氷河山脈を越える隊商路を利用する陸上交易が始まった。

【オスタリ−チ總督府の時代】861-

《オスタリーチ總督府》

ガイツ總督府は湿潤な盆地東部から高燥な盆地西部(現在のオスタリーチ縣)に軍團主力と共に移駐し山際のオリザ河岸に堅固な石城と街區を構えオスタリーチ總督府と改稱した。整備された道路網により陸上交易路の拠點となり本國の有力者の別荘が集中し商人・手工業者も多數移住した。オスタリーチとは古レミニア語で「駝鳥の國」と云う意味である。歴史學者によれば當時は野生の駝鳥が棲息していて別荘の持主に其の駝鳥を飼う者が居り其處から由来したのではないかと云う。この堅固な石城と市壁に囲まれたオスタリーチ市は本國と繋がる青氷河山脈越えの陸上交易路の端末點として殷賑を極めた。幸い平野部には先住民も定住しておらず、戰争が無かったので住民は平和と繁榮を享受できた。

《レミニア遠征》915

十世紀に始まった氣候温暖期による人口増大に伴い總督府は十分な食糧を供給する必要に迫られ、新たな耕地を求めて南部沿岸地方のレミニアに殖民しよう決心した。915年に隷下の軍團から遠征支隊を編成しヴェルダン地峡を南下せしめレミニア臺地(現在のメトロポリス市)に至らしめた。其處に城塞を築き戰闘團を繰出してはレミニア平野から先住民を驅逐していった。軍團の兵士には退役すると無償で土地が供與され小麥栽培が勧められたので、温暖な氣候と良質の土壌に恵まれ入植地は有力な穀倉地帯として知られるようになった。農場主は仲買商人を通じて餘剰小麥をガイツ・オスタリーチの市場に出荷し代価の金貨を以て灌漑設備と道路を整え武備を充實した。駐屯の軍團支隊は正規の定數以外に臨時義勇部隊を加えて行き、農場主の息子供は装甲騎兵に、無産の貧民は輕装獵兵となった。其の他に投石器・攻城櫓等を扱う職人組合も陣列に随伴して相當の報酬を與えられた。レミニア支隊は農閑期となると邊境に討伐に出かけ新たな農地を先住民から奪い取った。

《ラート将軍の亂》960

この小麥流通に目をつけた總督府は折からの財政強化策の一環としてヴェルダン地峡に關所を設け關税徴収を始めた。為に現金収入の減ったレミニア農民層から不満が洩れだした。自らの貧困化を危惧したレミニアの市民・農場主は再三の抗議を總督府に行ったが、總督府は此れを無視し、膝元のオスタリーチ地方の土木工事に關税収益を注込んだ。年を追う毎に關税率は徐々に上がって行った。
軍團のレミニア駐屯支隊にラートなる有力な将校がおり、これが高まる地元民の不満の聲を代表して、960年に配下の兵と地主の義勇騎兵隊を率い關所を襲撃占拠し、税關吏を追放してしまった。
ラート隊長は勢いをかってガイツ地方東半部及青氷河山脈越の交易路を占領、オスタリーチ總督府は叛亂を鎮定すべく隷下軍團を派遣したが、盆地中央の線で(現在のブランカイ・リリオイ村)ラート隊長の軍と對峙した儘、冬季を迎え戰線は膠着してしまった。
ラート隊長はレミニア地方の民會の支持を受けて新たにレミニア軍團を編成し、その軍團長将軍に就任した。ラート将軍の提議によりレミニア民會は本國に使者を送る事になり、是迄に蓄えた大量の金貨、ガイツ・フラーヴァ川で採取された寶石多數、先住民から略奪した寶物及奴隷等を携え、レミニア軍團護衛隊を従えた民會代表團が青氷河山脈を越え本國の首都に上った。
此の時、本國では既に共和制體が崩れ、寡頭制體となっており、その最有力者がまさに皇帝の地位に就かんと劃策していた時であったので、レミニアからの使者が将来の皇帝たる權勢家に忠誠を誓い貢物を差出すと非常に歡迎されたのであった。
間もなく皇帝の地位に就いた權勢家はレミニア地方をオスタリーチ州から分離獨立せしめ本國直轄の保護州とし、ラート将軍を其の王に任じた。オスタリーチは當時、帝政に不満を抱く貴族の安全な亡命先となっていたので、皇帝は此の南部邊境に彼等を監視牽制する對抗勢力を置かんとしたのである。


【ラート王國の時代】960-

《ラート一世王》960-989

ラート将軍は王冠を戴きレミニア州にラート王國を樹立した。本國の皇帝はオスタリーチ總督とラート國王の双方に對し早急に兵を引き和解するよう勸告し戰争は終結した。ラート王は殖産興國に努めレミニア平野から先住民を一掃した。更に西隣のハナフウーダン盆地に遠征軍を送り版圖擴大を行い、軍團の退役兵士は占領地に入植した。ラート王はその中の有力者を叙爵し代官とした。子爵が郡を治め、伯爵が數郡を統轄し、公爵が王の名代として縣を支配した。
ラート王の側近には賢明な者が多く集まり、門閥に囚われず勲功の有る家臣を重用したので國は繁榮した。特産物の小麥を輸出して地主貴族と農民は潤い、餘剰の財貨は首府の城壁内に開かれた常設自由市場の商取引に流れ込んだ。既に此の頃、両替商や高利貸等の原始的な金融資本家がラート王宮廷の御用商人として活躍し、王國の財務を取仕切っている。

《ラート二世王》990-1039

ラート将軍の息子ラート二世王は軍團を改編し重騎兵隊と弓隊を擴充した。
重騎兵は武装と糧食は私費で多くの従者及私兵を率い戰争の度に國王の動員命令に無給で應じた。其の為、重騎兵は一定の資産を持たなければ軍役が果たせず、更に幼少時から多くの時間を割いて軍事訓練を受けなければならないので勢い其の補充源は地主階級に限定された。商人や職人の有産者は全く軍人としての訓練を受ける暇が無く専ら家業の専門職訓練を受けるのに忙しいので重騎兵に成る資格を有しなかった。重騎兵隊は甲冑を着込んで隙無く装甲し乗馬にまで鎧を着せた。集團にて高速度の突進を行い其の衝力に依って敵の方陣を突破するのが主任務であった。
弓兵は無産の平民が志願したが、大人數の一薺射撃は歩兵の接近を妨げる効果があった。装備・食糧は無償で貸與され小遣銭が定期に支給され、復員除隊時には慰勞の金貨が與えられた。多くの出稼人、食詰者、浮浪者、失業者、犯罪者が應募した。
中核となる重装歩兵軍團は從来の儘の編成を維持しており、自由民からの徴兵によった。軍團長は自らの重装歩兵の他に補助兵力としての重騎兵及弓兵を配下に置いた。
1003年、此の様な軍隊を率い軍團長カーメン将軍はレミニアの西隣にあるハナフウーダン盆地に侵入して其の壓倒的武力を以て先住民の集落を逐次覆滅し平野部を占領した。功績の有った兵士は退役して占領地に入植し地主となった。軍團長カーメン将軍自軀も王によってハナフウーダン公爵位を與えられ占領地の總督となり、王に代って新領地を統治した。
此の戦争に依りラート王國の版圖は倍増し經濟規模の擴大に依り國庫は潤った。

《ラート三世王》1040-1090

然しハナフウーダン盆地を取囲む山嶽地帯に蟠踞する先住民部族は依然として抵抗を續け平野部を襲撃したので、1090年、ラート三世王はカーメン公爵に命じて有力な北部山嶽部族トラプニアを討伐し服属せしめた。

《ラート四世王》1091-1139

1126年、ラート四世王はカーメン公爵に命じて有力な北西部山嶽部族カルタニアを討伐し服属せしめた。

《ラート五世王》1140-1189

1159年、ラート四世王はカーメン公爵に命じて有力な西部山嶽部族ワを討伐し服属せしめた。

《ラート六世王》1190-1239

ラート六世王は南海探検隊を派遣した。1211年、軍團をアンドロメダ盆地に派遣し伯爵領を置いた。

《ラート七世王》1240-1289

北隣のガイツの地主貴族團がオスタリーチ總督府より獨立する意向を示したので、ラート王國は是を援助する為に1250年、軍團支隊をガイツ地方に派遣しガイツ城を武力占拠、總督府役人を追放した。オスタリーチ總督府はやはり軍團を繰出して對陣に入ったが本國皇帝の仲裁により、ガイツの自治權が認められ和平となった。是は早春に始まり雨期に終わった為、梅雨戰争と呼ばれた。
《ラート八世王》1290-1339

1308年、折から大陸東部に勃興して来た東方帝國より朝貢を勧められるがラート八世王が是を拒否し使節團を處刑してしまった。然し東方帝國は他の占領事業に忙殺されていて遠征軍を送り込んでこなかった。

《ラート九世王》1340-1389

東方帝國が版圖擴大し来陸南岸の制海權を握るに至りレミニア船の拿捕を始める。

《ラート十世王》1390-1439

東方帝國より朝貢の進めが来るがラート王は前例に従い使節團を處刑した。

《ラート十一世王》1440-1464

1464年、東方帝國遠征軍がレミニア沿岸に上陸し橋頭堡を築き、これを驅逐せんとしたラート王國軍を壊滅させラート王は戰死。東方帝國軍は首都メトロポリス城に進駐した。大船團が軍需品を間断無く補給して来るので東方帝國軍の略奪は起こらず、意外に平穏な占領に市民は安堵した。

《ラート十二世王》1465-1470

東方帝國は軍政全權を握る太守を送込み、王子ラート十二世を即位させ、其の儘従前通りの政體を維持させる間接統治を實施した。ラート王國は東方帝國の属國となったのである。
東方帝國レミニア太守の占領政策が進展するうち、ラート十二世は太守の内政干渉に反抗するレミニア貴族勢力の中心にいたが、太守の驅使する秘密警察の監視下にあって手も足も出ず、怒濤の如く流入してくる東方文化は從来の原始的なレミニア經濟をすっかり變えてしまい、東方文明を享受して格段に豊かになった市民は舊政權を見限ってしまっていた。貿易路は舊来の青氷河山脈越の陸上經由ではなく大型貿易船に依る海上経由が主となり、良質のレミニア産小麥は高値で取引された。東方帝國は東洋諸國と交易を行っていた為そこから流入してくる香料、繊維、礦石を始めとする物資はレミニアの文明度を上昇させ、更に高度な商工業の技法が浸透すると經濟活動は格段の効率化精密化を觀るに至った。
太守は明文法を制定し度量衡を改正し流通貨幣を鋳造し人種身分信教にかかわらず有為な人材を重用し、萬民悉く文字を解し算を用うべしと命令を發して普通教育を普及させた。大學と圖書館を設け篤學の士に古代文明や外國文化の知恵を傳える書物や思考法を學ばせた。このため東方帝國保護下以降のレミニア人の民度はそれまでの蛮族同然の状態から高度な文明人の其れに著しく變化したと云われている。
太守は然し叛抗するレミニア貴族とその郎黨を容赦なく彈壓した。密告が奨励され張り巡らされた密偵網により多くの愛國者が豫防拘禁され、叛亂計劃は悉く未然に察知されて關與者は地の涯に流刑となり首謀者は死刑となった。レミニア十二世は太守にとって目障りな存在だったが、これを處断すると民衆の反感を買う虞があった為、生かさず殺さず温存する一方、密かに毒を盛り瀕死の目に幾度も遭わせたりしている。其の所為かどうかは不明であるが、ラート十二世は若くして薨去した。

《ラート十三世王》1471-1481

分別の付かぬうちに即位した十三世王は太守の云いなりとなる便利な存在であったが狩獵事故により怪我がもとで亡くなった。過激愛國派のレミニア貴族某の陰謀によるものとされているが眞相は定かではない。

《ラート十四世王》1482-1491

十三王の後を継ぐ資格があるとしてレミニア貴族團から指名されたのは王の従兄弟である。僧籍に入っていたのを還俗させられ玉座に座った。この人物を即位させんが為に先王は暗殺されたのだと云う説が有力である。太守はこの新王を警戒し取巻のレミニア貴族を悉く逮捕處刑するの擧に出た。信頼する側近を剥取られ裸となった十四世王は為す術も無く厳重な監視下に置かれ些か精神に異常を来した儘その短い一生を終わった。

《ラート十五世王》1492-1497

即位後間もなく病没。太守に毒を盛られたとの説が有力である。

《ラート十六世》1498-1500

十六世と同様に病没。これにてラート王家の血統は絶たと太守が宣言し、新たにレミニア公爵位を設け自治權を與える。

【メソポタニア】
紀元前9000年頃シュメール人農耕開始。
紀元前3500年頃ウバイド文明(灌漑農業・車輪・銅器)
紀元前3500-3100年頃ウルク都市國家群(円筒印章・煉瓦・文字)
紀元前3100-2900年頃ジェムデト・ナスル期(青銅器・大洪水)
紀元前2800年頃キシュ第1王朝
紀元前2450-330年頃ラガシュ・ウンマ戦争(水利を巡る百年抗争にウンマ市が勝利しシュメール統一、ウルク第3王朝成立)
紀元前2350-113年アッカド帝國(アガデ市常備軍がシュメール統一)
紀元前2113-006年ウル第3王朝(異民族侵入による四分五裂期期を収拾、ウル・ナンム法典)
紀元前2004年東方シュマシュキ朝古エラムがウル占領しシュメール人國家滅亡)
紀元前2004-1750年頃イシン・ラルサ時代(アマル人諸王國並立)
紀元前1757年頃バビロン第1王朝(バビロン王ハンムラビがメソポタニア統一)
紀元前1595年頃ヒッタイト帝國がバビロニア占領。
紀元前1460年頃カッシート王朝(カッシート人がバビロニア占領)。
紀元前1200年大崩壊起る。ヒッタイト帝國滅亡。
紀元前1150年頃エラム王がカッシートを撃破しバビロニアを支配。
紀元前1129年頃新アッシリア帝國成立。
紀元前625年カルデアがアッシリアを撃破(新バビロニア王國成立)
紀元前525年ペルシア帝國成立。

【希臘】
紀元前498-94年イオニア叛亂(ペルシャ軍がイオニア諸都市叛亂を鎮壓)。紀元前499-49年ペルシャ戰争(希臘聯合軍がペルシャ遠征軍を驅逐、アテネ主導デロス同盟成立)。紀元前460-45年第一次ペロポネソス戦争(スパルタ軍がアテネに侵攻、双方激突の末ニキアス和平締結)。紀元前431-404年第二次ペロポネソス戰争(スパルタ軍がアテネ侵攻、アテネのシラクサ遠征軍崩壊、デロス同盟解體、スパルタ・ペルシャ同盟成立、アテネ降伏、市民層崩壊、傭兵制に移行)
紀元前228-22年クレオメネス戦争(アカイア同盟・マケドニアがスパルタを占領)。
紀元前195-92年ナビス戰争乃至ラコニア戰争・羅馬スパルタ戰争(スパルタ覇権喪失)。

【羅馬】
紀元前498-93年第一次ラティウム戰争(羅馬軍が羅馬亡命王を援助するラティウム都市軍に勝利)。
紀元前340-38年第二次ラティウム戰争(羅馬軍がラティウム同盟軍・カンパニア軍を驅逐、ラティウムを併呑)。紀元前343-41年第一次サムニウム戰争(羅馬軍がアペニン山麓サムニウム族を壓倒しカンパニア併合)。紀元前327-04年第二次サムニウム戰争(羅馬軍カンパニア人救援の為出兵、敵軍に學び重装歩兵・マニプルスを取入れる)。紀元前298-91年第三次サムニウム戦争(羅馬軍サムニウム人を驅逐し伊半島全域を支配)。
紀元前264-41年第一次ポエニ戰役(羅馬軍シチリア攻略、チュニジア進駐するもカルタゴ軍に撃退さる、シチリア・サルディーニア・コルシカ属州獲得)。紀元前229-28年第一次イリュリア戰争(羅馬軍がアドリア沿岸イリュリア王國諸島を占領し海賊鎮壓)。紀元前220-19年第二次イリュリア戰争(羅馬海軍がイリュリア海軍を驅逐)。紀元前220-01年第一次マケドニア戰争(マケドニア王軍がカルタゴと同盟し羅馬軍に對抗)。紀元前219-01年第二次ポエニ戰役乃至ハンニバル戰争(カルタゴ軍イベリアを制壓し羅馬に迫るが羅馬軍の逆侵攻に遭い降伏、ヒスパニア属州獲得)。
紀元前148年第二次マケドニア戰争(羅馬軍がマケドニア軍を撃破)。紀元前192-88年ローマ・シリア戦争乃至シリア戰争乃至アンティオコス戰争(羅馬軍がシリアの希臘進出を阻止、亜細亜地方を併呑)。紀元前181-79年ケルティベリア戦争(羅馬軍がイベリア北西部コンプレガ地方の叛亂を鎮壓)。紀元前171-68年第三次マケドニア戰争(羅馬軍がマケドニア軍を撃破、マケドニア王國解體)。紀元前168年第三次イリュリア戦争(羅馬軍がイリュリア叛亂を鎮壓)。 紀元前155-40年ルシタニア戰争乃至ヴィリアトゥスの叛亂(羅馬軍がイベリア北部ルシタニア族の略奪遠征を阻止)。紀元前153年-33年ヌマンティア戰争(羅馬軍がイベリア北西部ケルティベリア都市國家群と長期交戰これを征服)。紀元前149-46年(カルタゴが羅馬軍により焦土化、阿弗利加属州となる。属州大荘園の安価な作物流入により自作農市民層没落す)。紀元前148年第四次マケドニア戰争(羅馬軍がマケドニア自治領叛亂鎮壓、マケドニア属州獲得)。紀元前120-15年スカンジナビア・ユトランドのキンブリ族が歐州縦断南下し羅馬周邊部に迫る。紀元前112-05年ユグルタ戦争(羅馬軍がアルジェリアのヌヴィディア王國内紛に介入、買収合戰により顕わになった羅馬軍頽廃をマリウス将軍が是正)。紀元前113-01年キンブリ・テウトニ戦争(羅馬軍がキンブリ族・チュートン族に大敗するもマリウス将軍が決戰にて勝利、武器自辨市民層没落による軍弱體化が原因、羅馬軍改組し傭兵制となる)。紀元前113年から羅馬同盟市戰争(同盟都市の市民權要求叛亂、法改正により収束)。紀元前104-00年第二次奴隷戰争(羅馬軍がシチリア島奴隷叛亂を鎮壓)。
紀元前73-71年スパルタクスの亂(羅馬軍が劍鬪士・奴隷叛亂を鎮壓)。紀元前88-84年。第一次ミトリダテス戦争(羅馬軍が黒海南岸ポントス王國の羅馬屬國ビテュニア・カッパドキア侵略を撃退)。紀元前83年-82年第二次ミトリダテス戦争(羅馬軍敗退しポントス王國より撤退)。紀元前75年-63年第三次ミトリダテス戦争(羅馬軍ポントス王國征服)。紀元前58-51年ガリア戰争(カエサル總督がガリア征服)。紀元前49-45年内戰(カエサル軍が元老院派を打倒し獨裁體制を敷く)
101-02年第一次ダキア戰争(羅馬軍ダキア遠征に失敗)。105-06年第二次ダキア戰争(羅馬軍ダキアを殲滅、ダキア属州獲得、金鑛により帝國財政が潤う)。107年ナバテア王國遠征(羅馬軍アラビア・ペトラエア属州獲得)。113-16年パルティア遠征(羅馬軍ペルシャを征服、アルメニア・メソポタニア・アッシリア属州獲得)。117年東方叛亂(アルメニア・メソポタミア・アッシリア属州放棄)。161-03年パルティア戰争(羅馬軍がpルティア軍からアルメニア王國を奪還)。162-82年マルコマンニ戦争(羅馬軍がゲルマン人の叛亂侵攻を鎮壓)。
1147年第二回十字軍出征。1189年第三回十字軍出征。
1202年第四回十字軍出征。1212年第五回十字軍出征。1228年第六回十字軍出征。1248年第七回十字軍出征。1270年第八回十字軍出征。1271年第九回十字軍出征。
1326年フィレンツエで大砲製造。1338年英佛百年戰争始まる。1347-51年、黒死病流行。

【中東】
1299年遊牧民・亡命騎士より成るオスマン朝開設。
1301年コユンヒサルの戰(土軍がビザンツ帝國軍を撃破)。1326年土軍ブルサ占領。1329年ペレカノンの戰(土軍がビザンツ帝國軍を撃破)。1331年土軍ニカイア占領。1337年土軍ニコメディア征服、周邊トルコ侯國を併合。1352年ビザンツ帝國内亂(土軍介入しトラキア出兵、ガリポリ占領)。1362年土軍エディルネ(アドリアノープル)占領し首都とす、ブルガリア・セルビア諸侯を自軍に編入)。1370年蒙古衰退の後をうけ中東一帯を支配するチムール帝國興る。1391年土軍ビザンツ帝國テッサロニキ占領、東ローマ軍を自軍に編入、サルハン・アイドゥン・メンテシェ諸侯國征服。1395年土軍コンスタンティノープル包囲。1396年ニコポリスの戰(土軍が十字軍を撃破)。
1402年アンカラの戰(チムール軍が土軍を撃破)。1453年ビザンツ帝國首都コンスタンティノープル陥落(イスタンブルと改稱、オスマン帝國首都となる)。1460年土軍がビザンツ帝國モレアス専制公領占領。1461年土軍がビザンツ帝國亡命政權トレビゾンド帝國征服、ビザンツ帝國滅亡。

【支那】
1126年宋が金に北半部を奪取さる(金は紙製迫撃砲飛火槍使用。宋は銃を製造し對元戰に使用)。1234年蒙古が金を併合。1259年竹製突火槍實用。1271年元朝成立(支那全土を併合)。1279年宋朝滅亡。
1334年元が青銅砲・小銃を使用。1368年紅巾の亂。元朝滅亡(蒙古の支那撤退)、明朝成立。

【朝鮮】
242-43年魏軍が高句麗討伐。
312年高句麗軍が遼東の樂浪郡占領。
355年高句麗が前燕に服属。
372年高句麗が前秦に服属。
391年高句麗軍が後燕・百濟に戰勝。
427年高句麗軍が倭軍を驅逐。
475年高句麗軍が百濟を驅逐。
598年隋の第一次高句麗遠征を撃退。
612年隋の第二次高句麗遠征を撃退。
613年隋の第三次高句麗遠征が國内叛亂により失敗。
614年隋の第四次高句麗遠征が國内叛亂により失敗。
642年唐の第一次高句麗遠征失敗。
661年百済の役(唐が百濟を征服)。唐の第二次高句麗遠征失敗。
663年白村江の戰(唐・新羅軍が百濟遺民・倭軍聯合軍を驅逐、百濟族滅亡)。
667?668年唐の第三次高句麗遠征(高句麗滅亡)。
1259年高麗が蒙古に服属。
1392年李朝成立。

【大和】
180 - 190年頃倭國大亂(邪馬臺國成立)。
200年頃葦原中国平定(邪馬臺國が出雲・熊襲併合)。三韓征伐(神功皇后が新羅占領、百濟・高句麗が服属)。香坂皇子・忍熊皇子の叛亂を鎮定。
249年倭軍が新羅軍を撃破。
250年頃神武東征(邪馬臺國が紀州占領)。
262年朝鮮出兵(倭軍が新羅攻撃)。
391年朝鮮出兵(倭軍が百済・新羅占領)。
393年朝鮮出兵(倭軍が新羅の都を包囲)
400年(高句麗軍が新羅より倭軍を驅逐、倭軍は任那・加羅に後退)。
404年(倭軍が高句麗領帯方界に侵入、撃退される)。
463年吉備の亂。星川皇子の亂。
527-28年磐井の亂(親新羅派北九州豪族を鎮壓)。
534年武蔵國造の亂(武蔵國内紛)。
587年丁未の亂乃至物部守屋の變(蘇我馬子軍により物部守屋滅亡)。
645年乙巳の變(中大兄皇子・中臣鎌子が蘇我入鹿を暗殺、蘇我氏滅亡)。
663年白村江の戰(唐・新羅軍が百濟遺民・倭軍聯合軍を驅逐、百濟滅亡、大化の改新)。
658-60年阿倍比羅夫の北方遠征。
672年壬申の亂(大海人皇子が皇太子大友皇子に叛亂、政權掌握)。
720年隼人の亂(征隼人持節大将軍大伴旅人が律令制に反對する熊襲叛亂を鎮壓)。
740年藤原広嗣の亂(九州左遷の大宰少弐の叛亂)。
764年藤原仲麻呂の亂乃至恵美押勝の亂(叛道鏡派の叛亂)。
774-78年蝦夷征討。
780-81年伊治呰麻呂の亂乃至宝亀の亂(蝦夷叛亂鎮壓)。 789年?伏の戰(征東大使紀古佐美が蝦夷に大敗)。
794年蝦夷征討(征夷大使大伴弟麻呂)。
801年蝦夷征討(征夷大将軍坂上田村麻呂)。
811年幣伊村征討(文室綿麻呂)。
878-79年元慶の亂(秋田夷俘叛亂軍と戦ずして和睦)。
939年天慶の亂(秋田夷俘叛亂)。
1051-62年前九年の役乃至奥州十二年合戰(奥州安倍氏叛亂、源氏・清原氏聯合軍が鎮壓)。
1070年延久蝦夷合戰乃至延久二年合戰乃至延久合戰(陸奥守源氏・清原氏の蝦夷征討)。
1083-87年後三年の役(源氏が奥州清原氏を殲滅、河内源氏擡頭)。
1107-08年 康和の亂乃至源義親追討事件(平正盛が源義親追討、河内源氏後退)。
1156年保元の亂(平氏源氏聯合軍が朝廷内紛を収拾、藤原摂関家凋落)。
1159年平治の亂(平清盛が源氏を追討、平氏政權擡頭)。
1179年ツホカミ山の戰(伯耆の源氏と平氏の紛争)。
1180年 - 1185年 : 治承・寿永の亂乃至源平合戰(源氏が平氏を覆滅、鎌倉幕府開設)。
1185年河原津の合戰(西國転進中の源義經軍が太田頼基の追撃を撃退)。河尻の戰(源義經軍が京武者の追撃を撃退)。
1189年衣川の戰(奥州藤原氏が源義經を討伐)。1189年奥州合戰(源氏が奥州藤原氏を殲滅)。
1190年大河兼任の亂(源氏が奥州藤原氏殘黨を討伐)。
1199年 : 梶原景時の變(幕府別當梶原が追討さる、北條政權擡頭)。
1201年建仁の亂(梶原派城氏の吉野・越後での倒幕叛亂を鎮壓)。
1203年比企能員の變(北條氏勢力が将軍外戚比企氏を誅滅)。
1205年畠山重忠の亂(北条義時が畑山氏を討伐、武蔵國を掌握)。
1213年和田合戰(北条義時が侍所別當和田義盛を殲滅、執權體制確立)。
1221年承久の亂(幕軍が後鳥羽上皇倒幕軍を撃退、朝廷所領没収、北條派新補地頭多數が西國に着任、北条政權の朝廷支配確立)。
1247年宝治合戰(北条・安達氏が三浦一族を殲滅、合議制廢し北條氏獨裁體制確立)。
1272年二月騒動(北條得宗家が他の執權繼承候補者を討滅)
1274年文永の役(蒙古遠征軍を撃退)。
1281年弘安の役(蒙古遠征軍を撃退)。
1285年霜月騒動乃至弘安合戰乃至安達泰盛の亂乃至秋田城介の亂(北條得宗家が安達氏を討滅、全有力御家人の排除完了)。
1293年平禪門の亂(執權が内管領平頼綱を討滅、執權獨裁體制確立)。
1324年正中の變(六波羅探題軍が後醍醐天皇の倒幕計畫を阻止)。
1326-28年安藤氏の亂乃至蝦夷の亂(幕軍が蝦夷鎮定長期戰、幕府能力衰退)。
1331-33年元弘の亂(後醍醐天皇の倒幕戰、戰後天皇親政開始)。
1336-92年南北朝の動亂(朝廷分裂し全土動亂す、足利尊氏幕府開設)。
1570-80年石山合戰(織田軍が一向宗徒軍を驅逐)。1573年室町幕府解體。1575年長篠合戰(織田・徳川聯合軍が武田軍を撃破)。1582年本能寺の變(明智軍が織田信長を襲撃)。山崎合戰(渕瞳海明智軍を殲滅)。1583年(渕瞳海柴田軍を殲滅)。1584年小牧長久手合戰(渕瞳海反ヅ墜狙醂合軍が對峙)。1585年四國攻(渕瞳海了耀∪衫痢法1586-87年九州征伐(豊臣軍の九州占領)。1590年小田原征伐(豊臣軍の關東占領)。太閤豊臣秀吉全國を統治。1592-93年文禄の役(明國遠征、朝鮮軍明軍に撃退される)。1997-98年慶長の役(朝鮮より撤兵)。1600年關ヶ原の戰(徳川軍が豊臣軍を撃破)。1603年徳川家康幕府を開設。1637-38年島原の亂(肥前島原・天草の土民叛亂)。


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